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自己啓発

感謝と哲学【ハイデガー】思考と論理、その間の微妙な違い

 

こんにちは。

トモです。

さて、近代、哲学の深遠を見つめたハイデガーという哲学者がいます。

彼は「考える」とは「感謝する」ことであると語った。

それは一体どういう意味なのでしょうか?

logos、ロゴスはその特徴を抽象的な論理性(ロジック)に見出します。

1+1が2であるように、正解は誰が求めても同じ結果になる、

つまり論理は我々の意識や行動とは関係なく成り立つということです。

しかし、ハイデガーは、「思考」が「論理」に単純化されてはならないと主張しました。

彼の背後には西洋哲学の再構築を試みたフッサールの影響があります。

私たち日本人は、「フィロソフィー」を実用的な技術、論理として吸収することに成功しました。

しかし、重要な部分、つまり「思考を感謝とする」部分を翻訳に盛り込むことはできませんでした。

ハイデガーが「哲学をすること」と定義するとすれば、それは存在についての深遠な思考である。

存在について考えるとは、人間の存在や様々な行動を支え、社会や歴史、学問を成立させる基盤を探求することである。

ハイデガーは哲学を行うことを人間の根源的な活動と認識しています。

「感謝」という単語は美しく、かつ少々疑わしい響きを持っています。

ハイデガーが「思考=感謝」と述べるとき、その意図が何であったのかが重要になります。

なぜ考えることが感謝することなのか?

誰に感謝するのでしょうか?

ハイデガーは存在について深く究明した哲学者です。彼は「存在」と「存在するもの」を区別します。

「存在(ザイン)」とは”存在することそのもの”、一方「存在するもの(ダス ザインデ)」とは、人や机のような”具体的な存在”を指します。

思考とは、存在から存在するものへ、あるいは過去から未来へと渡される「贈り物」を受け取る過程なのです。

では、私たちはどのようにしてその贈り物を受け取るのでしょうか?

考えることは『感謝』であり『贈り物』であるとの言葉がありますが、具体的な意味は一見不明です。

だとしたら、私たちはどのようにしてその贈り物を手に入れるのでしょう。

①どちらも時間とともに成長する。思考と哲学は、時間の経過とともに変化し続けます。

②どちらもなくても生活は可能。思考も哲学も、無くても生活は維持できます。

実際、私たちの日常生活において、哲学的な思考は時として邪魔に感じられることがあります。「知識が邪魔をする」とか、「何も知らない方が幸せだ」と思うこともあるでしょう。

それゆえ、哲学的な思考は「感謝」よりも「ありがた迷惑」と捉えることもできるかもしれません。

「ダス・マン」の概念

「ダス・マン」とは、死を避け、個性を放棄し、平凡な生き方を選ぶ人々を指す言葉です。

本来、人間は「存在」として、自由に生活の道を選ぶ力を持っています。

しかし、「ダス・マン」は死を恐れ、自己の個性を失いながら生きています。

「ダス・マン」のイメージについて

例えば、会社で上司の指示に従い、自己の意志ではなく上司の意向に基づいて行動する人々がいます。

ハイデガーは、技術の進歩や大衆文化の影響により、多くの人々が自己の個性を失い、他者に準じた平凡な生活を送っていることを指摘しました。

存在を忘れる時代について

「存在を忘れる時代」とは、自己の本質的な存在方法を見失い、「ダス・マン」となる時期を指します。

この時代では、モノや人々が単なる利用可能な資源として扱われてしまいます。

ハイデガーによれば、例えば化粧品メーカーは、自社の利益を増やすために「美しさを求める人々」に広告を流し、製品の購入を促します。

この場合、人々は単に企業の利益を増やすための道具として扱われていると言えるのです。

本日もありがとうございました。

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